島原半島への旅(その3) 原山ドルメン・縄文の館

今年4月西区民会館で開催された歴史講座「吉武高木遺跡」に参加した。
その講座で、吉武高木の「高木」は←「高来」←「高麗」(こうらい)と変化しものであり、長崎の南高来郡もその流れであり、朝鮮半島に由来している。原山のドルメンもその証拠といえるとの話があった。
雲仙への途中にあるので、今回の旅に組み入れた。

ナビ(原山ドルメンでは検索できず、住所で設定)を頼りに、迷いながら漸く到着。
国指定の史跡の割には、案内、管理等いまいちと感じた。
当初の意気込みが、覚めたみたい。

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[Wikipediaから転載」
当初は、地上に支石を箱形に並べ、その上に天井石が載るというテーブル状形態を示しており、天井石の下部では葬祀が行なえるようになっていた。中国東北部・遼東半島・朝鮮半島西北部に分布する。紀元前400年頃から次第に支石が低くなっていき碁盤式といわれ、朝鮮半島西側の中南部と北部九州に見られる。また、青銅器(銅剣など)の副葬も見られ始めた。(要出典)

紀元前500年頃、支石墓は朝鮮半島(無文土器時代)へ伝播した。遺構は半島のほぼ全域で見られ(約4-6万基とされる)、世界の支石墓の半数が朝鮮半島にあるといわれている。南へ伝播するに従い、支石は地下へ埋設されるようになり、天井石が地表近くまで下りている。大韓民国では、高くそびえるもの(テーブル式)を「北方式」、低いもの(碁盤式)を「南方式」と分類しており、両形式のおおよその境界は全羅北道付近とされる。また、天井石が碁盤状を呈するなど多様な類型を示していることも、朝鮮半島の支石墓の特徴である。紀元前後になると、銅剣(細型銅剣)が副葬されるようになった。(要出典)

朝鮮半島において、分布が特に顕著なのは半島南西地域(現在の全羅南道)である。同地域ではもっとも多い場所で500-600基の支石墓が群集している。支石墓は朝鮮半島の先史時代を大きく特徴づけており、2000年には高敞、和順、江華の支石墓群が世界遺産に登録された。

日本では、浙南の石棚墓群によく似た支石墓が縄文時代最晩期の九州北西部に出現している。また、屈葬の採用や甕棺を伴うことなど、一定の独自性も認められる。日本の支石墓は、弥生時代前期が終わる頃に、ほぼ終焉を迎えている。

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